大乗仏教の陰謀!! 阿含経は、小乗経典ではない!! 釈尊直説の唯一の経典 慈悲を説く「阿含経」 在家の修行法も説く「阿含経」 正法を知っていただくために!!
阿含経(あごんきょう)は、小乗仏教ではないのです。それは、大乗側が一方的に侮蔑して呼んだ貶称(へんしょう)なのです。大乗側の陰謀です。全くのでっち上げなのです。現代仏教学では、阿含経が、小乗経典ではなく、大乗経典であることが証明されています。また、阿含経は、大乗仏教が言うように、出家仏教でもなく、在家の修行法がきちんと説かれているのです。以下、現代仏教学の見地から、学問的に検証してみたいと思います。
現代仏教学では、大乗仏教がすべて釈尊直説の経典ではなく、偽経であることがわかっています。詳しくは、私の他の投稿をご覧ください。釈尊入寂後、500年ほど経過した頃、教団が分裂して出て行った大乗側が、勝手に言い出した小乗という言葉に、何の価値も無いのです。理論的に根拠があるならまだしも、全くなんの学問的根拠も無い用語なのです。これは、原始仏教に対する冒涜行為なのです。
また、現代では、小乗という言葉は、使わないことになっています。 ウィキペディアからです。
「世界仏教徒の交流が深まった近代以降には、相互尊重の立場から批判が強まり、徐々に使われなくなった。1950年6月、世界仏教徒連盟の主催する第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催された際、小乗仏教という呼称は使わないことが決議されている。」
したがって、いまだに小乗などという言葉を使用している人は、学問的無知ということになります。学者でも、いまだに平気で使っている人がいますが、知らないということは、恐ろしいことです。
阿含仏教は、現代仏教学では、「原始仏教」あるいは、「根本仏教」と呼ばれているのです。 阿含経が、自己の悟りだけを目指す、慈悲心の足りない、小乗経典ではなく、大乗経典であることは、阿含経を読んでみれば、誰にでもすぐにわかります。
阿含経が大乗経典であるという証拠の経典を、いくつかご紹介します。 まず、最初は、 慈しみ(スッタニパータ 1章8) です。
「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべき事は、次のとおりである。
能力あり、直く、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がることの無い者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかな食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の家で貪ぼる事が無い。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生き物生類であっても、怯えているものでも強豪なものでも、ことごとく長いものでも、大きなものでも、中くらいなものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くにすむものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何人も他人を欺いてはならない。たとえ何処にあっても、他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与える事を望んではならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。
また全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく、怨み無く、敵意無き慈しみを行うべし。
立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりと保て。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」
この経典から、慈悲心が足りない、大慈大悲が無いなどということが間違いであることがすぐにわかります。
「比丘らよ、汝等は天と人の一切の束縛から脱した。 比丘らよ、多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽のため、世間の憐愍のため、天と人との義利・利益・安楽のために遊行せよ。 それぞれ2 人で行ってはいけない。」 (MahAvagga,Ⅰ 11.1)
この経典からは、自分の悟りを目指すだけでなく、布教のために、いかに努力されていたかがわかります。この経典から、二つのことがわかります。まず、釈尊の直弟子たちには、完全解脱された比丘たちがいたということです。彼らは、阿羅漢と呼ばれていました。阿羅漢は、仏陀そのものなのです。阿羅漢は、仏陀と同意語なのです。詳しくは、こちらをご覧ください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1051472660
もう一つは、その阿羅漢たちに対して、布教を勧めていることです。これは、原始仏教が、自分だけの悟りを開くのではなく、大乗の菩薩思想の源流の一つであることを証明しているのです。したがって、阿含経は、大乗経典なのです。
「雑阿含経 一切事経」 をご紹介します。
この経典には、在家の修行法と布教活動の重要性が書かれています。 在家の修行者、つまり、優婆塞(うばそく)の修行法が説かれているのです。 「優婆塞の八法、十六法」と言います。この修行法によって、 「自安安他」、つまり、自分を安じ、他を安ずるのです。この自安安他は、大乗仏教の「自利利他」の源流なのです。したがって、この経典によって、阿含経が小乗経典ではなく、また、出家仏教でもないことが証明できるのです。さらに、在家修行者でも、出家者以上の存在になれることが説かれているのです。大変重要な経典です。
「マハーナーマ(釈尊の在家の弟子。)は、釈尊に申し上げました。世尊よ。いくつの法を成就する優婆塞(うばそく。在家修行者のこと。)が、自分を安じ、他を安ずる優婆塞なのでしょうか? (自安安他)
釈尊:優婆塞の十六法を成就する者が、自分を安じ、他を安ずる優婆塞です。 マハーナーマよ。
自分自身が正しい信を持つと共に、他者にもそれを確立させる。 (信)
自分が浄戒を保つと共に、他者にも浄戒を確立させる。(戒)
自分が布施を行うと共に、他者にも布施行を教える。(施)
自分が塔寺に参詣してもろもろの沙門に見えると共に、他者にも塔寺への参詣と沙門に見えることを教える。自分が沙門の説法をひたすら拝聴すると共に、他者にも沙門の説法を拝聴すること教える。(聞)
自分が法を受持すると共に、他者にも受持することを教える。(持)
自分が仏法の深義を観察すると共に、他者にも仏法の深義を観察することを教える。(観)
自分が仏法の深義を知って法に近づき法を追求すると共に、他者にも仏法の深義を理解させて、また法に近づき法を追求する修行を行わせる。 (法次、法向)
マハーナーマよ。このように、十六法を成就するものは、自分を安じ慰めて、他人を安じ慰める優婆塞というのです。
マハーナーマよ。この十六法を成就する優婆塞のもとには、あのもろもろの大衆がすべて参詣するようになります。その大衆とは、いわゆるバラモンたち、クシャトリアたち、長者たち、沙門たちであり、それらの人々の中においても十六法を成就する優婆塞の威徳は大いに輝きます。ちょうど、太陽の光明が日の出から日没まで大いに輝き続けるのと同じように、優婆塞の十六法を成就する者の威徳は大いに輝き続けるのです。
マハーナーマよ。このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです。」
自分だけでは八法ですが、他者にも布教することによって、十六法となるのです。したがって、阿含経は、大乗経典です。
大乗仏教の方々は、阿含経が「空」の源流であることさえ知らない方が多いのです。 スッタニパータからの引用です。
『モッガラーナよ。常に思いをこらし、自我に執する見解を打ち破って、世間を「空」として観察せよ。しからば死を乗り越えることができるであろう。このように世間を観察する人を、死王は見ることがない。』
「空」という言葉が使われています。この詩句について、 藤田宏達教授は、
「これは、原始仏教の最初期の段階から、空の観察が説示されていたこと、そしてその基礎が<自我に執する見解を打ち破って>立てられていること、つまり無我説にあることを明示している。」(「空」下)
と言っておられます。つまり、無我説から法空は説かれるのです。諸法は、無我なのです。これが法空となるのです。縁起の法→諸行無常、諸法無我の二つの概念→法空 となるのです。したがって、阿含経で法空がすでに説かれていたことに間違いはないのです。
大乗仏教は、大乗の空と阿含経の空とに、差異を付けるため、なんとか阿含経の空を低めたいと思ったのでしょう。確かに、大乗の空論は、完成されたものですが、阿含経が小乗ということはないのです。阿含経も空を説いているのに、小乗ということはあり得ません。空ならば大乗なのであって、空なのに小乗とか、小乗の空、小乗の仏とか、そういった概念は自己矛盾をきたしており、理論的に破綻しています。
阿含経を、方便、小乗などとさげすみましたが、実は、大乗経典が全て偽経であって、阿含経だけが、釈尊直説の唯一の経典であり、正法だったのです。真理は、既に説かれていたのです。後から、その真理をなんとか押さえ込もうとしても、どうしても矛盾が露呈してしまうのです。さらにその後で、近代となって、学問が進んで、阿含経を読めば真実がすべてわかってしまったのです。真理は、絶対に押さえ込めません。正義は、勝つのです。そのための釈迦仏教なのです。偶像崇拝とは、次元が違うのです。(偶像崇拝を否定するわけではありません。)
「ここに比丘らよ、われによりて法は悟られ、汝らに説かれたり。 すなわち、四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道これなり。 それゆえにすべての比丘らは相和し、相欣び、争うことなくして、これを学ばざるべからず。」 パーリ文アーガマ(『中阿含経』第百三)Kinti sutta
成仏法は、阿含経に書かれている「七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうほん)」しかないのです。詳しくは、阿含宗のこちらのページをご覧ください。
http://www.agon.org/about/b_01_05.html
以上、「仏陀の真実の教えを説く」「阿含密教いま」 「般若心経瞑想法」から引用しました。
正法を知っていただくために、参考になれば幸いです。 合掌